2024年09月26日
まんが愛クロニクル 黎明篇「少年、コミックス購入はじめる」
まいど。
人生の午後をおもしろおかしく暮らす、つるたやです。
自分的に好評!私的マンガの記憶を絞り出すコーナー。
『その時代にワタクシを魅了した作品をこそ、
語るべきなのではないか?
時代を切り口に、ワタクシがどのような作品に
出合ったかを語ろうじゃないか、という企画』です。
前回は、1971年~1973年くらいの記憶として、マンガにかかわる
もっとも古い記憶をひもといてみました。
なんというか、いくつもの出会いが今に至る道筋を指し示しているようで、
自分事ながらちょっと感動しました。
まさに三つ子の魂。
未読の方は是非コチラからどうぞ。
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さて今回は、前回ほどインパクトがある気のしない、
1973年4月~1974年3月です。
親の転勤により、八戸市から仙台市へ引っ越して、
仙台南部のとある小学校に一年間通った頃です。
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引っ越し先の社宅は、東北有数の平野部の田園地帯にあった。
小学校に通うのに未舗装の農道を抜けて、農業用水路沿いの道路に出て、
その道路を少し歩くと、学校の校門があった。
用水路が多いせいか、春から夏にかけて、あちこちでカエルが鳴くのだが、
ウシガエルの声なんかはここで初めて聞いたような気がする。
ウシガエルのオタマジャクシのサイズがけっこうデカイと知ったのも
この頃で、用水路にうじゃうじゃいたのをおぼえている。
ちょっと離れたところにわりと大きい川もあって、
スルメイカでアメリカザリガニを釣ったりする、まあまあ自然と遊ぶ子供であった。
が、よく考えるとウシガエルもアメリカザリガニも、
生態系被害防止外来種リストにのっているくらいの外来種である。
50年前に田舎のほうでもすでにそんな感じだったのだな、と今更思う。
さておき、マンガである。
前述のとおり、家の周囲から小学校に至るまで、まあまあの田んぼが
広がり、自転車でちょっと遠出をしても、川遊びで終わる、そんな環境下で、
近所にマンガを買っている新婚さんがいるわけでもなく、
マンガに出会って初めての“マンガ空白時代”が訪れていた。
近所にマンガを買っている新婚さんがいるわけでもなく、
マンガに出会って初めての“マンガ空白時代”が訪れていた。
そんな時期だが、一瞬だけマンガに接するチャンスがあった。
それが“病院の待合室”である。
当時、副鼻腔炎(通称鼻炎)だった僕は、市内の耳鼻科に通っていたのだが、
そこに「週刊少年マガジン」やらマンガの単行本があって、その時だけ
マンガを読むことができていた。
その時に「デビルマン」の最終話を読む、という得難い経験もした。
記憶は曖昧だが、多分その流れでマンガの単行本も何冊か購入している。
オモライくん 第2巻/永井豪
★ざっくりしょうかい
こじきの少年オモライくんが、あまりの汚さに、かかわる教師たちが、
死んじゃったり発狂したりする、という、ナンセンスギャク。
オモライくんのぽっちゃりに見える体形が実は垢の堆積したもので、
本人はガリガリに痩せている、という設定がもはやSF。
本人はガリガリに痩せている、という設定がもはやSF。
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なんでこんなの買ったんだろう?って今でも思うが、基本、男の子は
こういうのが好きなのである。
ただただ不潔なことをネタにしたギャグなのに、排泄物が出てきてすら
それほど不快感をおぼえないのは、どこか絵空事な感じがするからだろうか。
なんでか2巻だけ買ったようで、気づくと入手困難になっていて1巻を
入手するのに大変苦労した。なんでか2巻だけ買ったようで、気づくと入手困難になっていて1巻を
問題作だったのだろうが、「ハレンチ学園」ほどの話題性がなくて
部数も伸びなくて絶版、という感じだったのかもしれない。
そして永井豪は振り切れた天才だったな、と、今さらながら思うのであった。
ナンセンスギャグとSFはとても近い、と教えてくれた作家である。
あとおぼえているのがコレ。
恐怖 第3巻/楳図かずお
ざっくり紹介するまでもなく、ご存じホラーマンガのパイオニアにして
第一人者である楳図かずおの恐怖マンガ短編集。
にしてもタイトルが「恐怖」って。
小学生にはとにかくコワイ。
あとなんか手に持っているだけで、毒かなんかが手に染みそう。
こわくてこわくて、押入れの奥にしまい込んでいたくらい
なのであるが、手放すため、引っ越すときに友達のタカシくんに
プレゼントしてきたのだった。
それまでは、こわくてこわくて捨てることもできなかったのだ。
タカシくんスマヌ。
タカシくんスマヌ。
「恐怖」はあまりに名作なので、大人になって買いなおした。
もちろん傑作なのだが、当然、子どもの頃ほど怖くはないのであった。
まあ、押入れに収納されているのだが。
もちろん傑作なのだが、当然、子どもの頃ほど怖くはないのであった。
まあ、押入れに収納されているのだが。
なんでこんなの買ったんだろう?って今でも思うが、基本、子どもは
こういうのが好きなのである。楳図かずおのホラーは、今考えると、当時としても精密な筆致の美しい絵と
しっかりしたプロットが基本であり、いわゆるホラーマンガとは
一線を画する上質な人間ドラマだったと思う。
そんな楳図が1976年に「まことちゃん」を連載したときには、衝撃を受けたものだった。
そういう意味では、ホラーとギャグがとても近い、と教えてくれた作家でもある。
それにしても当時の買い方が、2巻とか3巻だけだったりするのは
本当に理解に苦しむが、単に入手できなかっただけかもしれないし、
資金難だった可能性もある。
本当に理解に苦しむが、単に入手できなかっただけかもしれないし、
資金難だった可能性もある。
こうやって書き出してみると、我ながら実に良いものを購入している。
まあ、つまらないものは記憶に残っていないだけなのかもしれないが。
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次回、『まんが愛クロニクル 望郷篇「立ち読みの頃」』に続く。
んでわ。
2024年09月25日
「定禅寺ストリートジャズフェスティバル2024」D面(ボーナストラック)
まいど。
人生の午後をおもしろおかしく暮らす、つるたやです。
当地仙台で行われておりました音楽イベント、
前回の記事ではイベント二日目日曜に仕事を抜け出して
たどり着いたステージについて書きましたが、
今回は時間を巻き戻して、初日土曜の裏話を。
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オレが地下鉄を乗り継いで西公園に着いたのは11時ちょうどで、
まさに西公園ステージでの最初の演奏が始まろうとしていた。
ベンチャーズのコピーバンドを背中で聴きながら目的の場所を目指す。
聴き流しながら歩くのがジャズフェスの醍醐味、そう味である。
オレのジャズフェスの味わい方は、流れる音楽を肴に現地調達した
酒を愉しむ、というスタイルなのである。
前日に、紙公式パンフレットを精査したオレは、明確な目標に向かって
歩いていた。
二本しかない地下鉄をわざわざ乗り継いで、メイン会場から離れた
ここ西公園を振り出しに選んだのは、仙台にできたばかりのブルワリーが
出店することを知ったからだった。
その名も『グレートデーンブリューイング』
アメリカのウィスコンシン州でブルワリーしてたのに、わざわざ日本の
しかも仙台に移住してきたというユニークな代表の元には、
やはりなかなかのくせ者が集ったようで、経緯も面白いが味もいい、
そんなブルワリーなのである。(個人の感想です)
すでに缶で飲む機会があったので、樽から供されるであろう機会を
是非とも味わいたいと思っていたのであった。
仙台市中央部を会場にするジャズフェスでも、西公園はだいぶ離れていて、
広いスペースも確保できるため、巨大屋台スポットでもあった。
ゆえに、様々なお店が立ち並んでおり、キューバンサンドの屋台に
心ゆさぶられながらも、目的の出店にたどり着いたオレは、
この日最初の悩みと向き合うことになるのだった。
「カルテットポーター」「オクトバーフェスト」
「ヘイジーIPA」「ダテライト」
ほーら、悩むでしょ?
できれば全部飲みたい!
だが、限られた胃袋と財布との折り合いをつけながら飲み歩くのも
ジャズフェスなのである。
今日は長丁場であるし、まだ昼前であることから、おそらくは軽めであろう
「ダテライト」を選び、オレはそれを片手に昼飯を買いに走った。
実は昼飯も事前にあたりはつけていた。
ビールにはキューバンサンドのほうが合うだろうけど、アレに気づいて
しまったからには素通りはできないのである。
そう、盛岡市民のソウルフード「じゃじゃめん」である。
その引力たるや中毒性すら疑わるほどであるが、炎天下の中、日よけもない
テーブルでアツアツの麺をいただくのはちょっとした踏み絵気分ではあった。
試されたオレの盛岡愛はさておいて、ちょうどダテライトも飲み終えたので、
次の一杯「ヘイジーIPA」を購入して、友人との合流場所を目指すことにした。
合流場所での演奏を聴いているうちに、ビールが終わってしまったので、
三杯目を調達「ブルームーン」である。
オレとしてはありがたいが、イベントスポンサーでもあるキリンビール一色の
ジャズフェス中心部でよく出店していたな、と思う。
ベルジャンホワイト(ベルギーの白)と呼ばれるスタイルのビールではあるが、
実はアメリカのコロラド州の野球場生まれということだけあって、
すっきりした感じがアウトドア向きであった。
ブルームーン片手にいくつかのステージを消化すると、あら不思議、
いつの間にかビールも消化されている。
次なるビールはできればサッポロビール、と思いウロウロしても
見つからなかったので、スポンサー様に一票投じるべく、
キリンビールの販売場に向かった。
毎年のことなので、メニューも予想できたので「ハートランド」か、
あれば「ブラウマイスター」を買おうと思っていたが、うれしい誤算があった。
「ブルックリンラガー」があったのである。
キリンがライセンス生産する以前から好きな銘柄だったので、
選ぶのに迷いはなかったが、サイズを大にするかどうかは
けっこう迷ったのであった。
まあ、大にしたのだが、結果としてこの日の外飲みビールはこれにて終了したのであった。
と、いうわけで、期せずしてオレのジャズフェスは、アメリカ由来の
ビールで始まり、終わったのであった。
書いてみて初めて気づいたわい。
それはまた別のはなしである。
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これにて「定禅寺ストリートジャズフェスティバル2024」レポートオマケの
“Drinkサイド”は終了です。
ホントは二回構成で“Beerサイド”とするはずだったのですがね。
んでわ。
2024年09月23日
講座『グリーフケアってなに?』を受講しました
まいど。
人生の午後をおもしろおかしく暮らす、つるたやです。
いつもお世話になっております“仙台グリーフケア研究会”が
開催した講座『グリーフケアってなに?』を聴講してまいりました。
ざっくりとした内容については、以前の記事をごらんいただくとして、
ワタクシメからは雑感など。
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職場を抜け出して最寄りの地下鉄駅まで車で向かい、park & ride。
地下鉄南北線の北のはずれから、一路南へ。
地下鉄河原町駅を降りて徒歩7分(GoogleMap調べ)の会場は
グリーフケアのファシリテータ研修でお馴染み、仙台市医師会館である。
ここは仙台市急患センターでもあり、緊急の発熱外来として機能している。
当然、日曜だろうが門は開かれているのだが、毎回、入りやすいような、
入りにくいような、妙な気分になる。
会場である二階ホールに、開始5分前になんとかたどりついたら、
受付は全員知った顔であった。
そう、普段、わかちあいの会のお手伝いをしている面々が、会場の設営から
受付担当、進行、おそらく撤収に至るまで行っているのであった。
当然、平時であればワタクシもその中にいるところであろうが、
そこは日曜日が営業日である悲しさで、こうして土壇場で抜け出して
参加するのが精いっぱいであった。
ドタキャンならぬドタ参である。とほほ。
受付でなんだか立派な冊子と三つ折りのパンフレットなどを受けとると
なんとなく後ろめたいので、そそくさと会場にはいった。
講演時間は60分。
長すぎない、というのは大事だとは思うが、ファシリテータ研修では
1つのテーマに6時間くらいかけて、10回ほど実施していたくらいだし、
60分にまとめるのはけっこう大変だったのではないか。
そこに、講演者自身の関わるきっかけや、仙台グリーフケア研究会の
成り立ちなんかも詰め込んできたので、まだこの方面に詳しくない方には
情報量の多さに戸惑う方もいたのではないかと思う。
ただ、最初にグリーフとは何かを語ってから、様々な角度からの
アプローチを説明していたように思うので、興味深く聴講しただろうとも思う。
ワタクシ個人としては、仙台グリーフケア研究会の代表である滑川明男氏が
グリーフケアにかかわることになった契機を知ることができたのが面白かった。
仙台グリーフケア研究会には、研修以来ここ3年ほどお世話になっているのだが、
実際に死別等のグリーフを経験していて、それをきっかけにグリーフケアに
関心を持った人がほとんどである印象だ。
そんな中で、代表である滑川氏は、心臓外科医であったにもかかわらず、
グリーフケアの活動をするうちに、転身して、グリーフケアを行う病院を
設立するに至った、と漏れ聞いていた。
ワタクシ自身、グリーフは人生を変え得る、とは思っていたので、
心臓外科から精神科へ劇的な転身の裏で、滑川氏は余程のグリーフを
経験したに違いない、と勝手に思い込んでいたのであった。
しかし実際には一冊の本との出会いが、滑川氏をグリーフケアの道へと
進ませたらしい。
本を読んで衝撃を受けて有識者を探し当て、そのつてでグリーフケアの
活動を始め、転職までしたという行動力とバイタリティには驚きを禁じ得ない。
実はけっこうすごい人だ。
しかしそんなすごさは微塵も感じさせずに、60分きっかりで
講義を終えて、質問コーナーに突入である。
正直質問コーナーで30分と聞いて、仕込みの存在を疑っていたのだが、
そんな質問は出なかったし、意外に感想のような話が多かった。
それらに丁寧に答えていたので、30分間は意外にあっさり終わったが、
んでわ。