2024年07月29日
2024年07月29日
14歳で夏だった
まいど。
人生の午後をおもしろおかしく暮らす、つるたやですが、
今回はちょっと暗い話をします。
ワタクシのグリーフばなしです。
今を去ること40数年前。
ワタクシは中学三年生だったわけですが、夏休みに入って早々、
一週間ほど病院に通っていました。
父が入院していたのです。
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14歳とは微妙な年ごろである、と今でも思うが、色々な気づきと
蒙昧さが混在することに苛立ちながらも、まあまあ鈍感に
過ごしていたのだと、今なら思える。
中三の僕は、高校受験をひかえていながら、勉学にまったく関心がなく、
部活動も幽霊部員で、もっぱら市の図書館に通っていた。
そうやって日々だらだらと過ごし、中学生最後の夏休みに
何のヴィジョンもなかった僕に、母は、父の入院している病院に通うよう命じた。
僕が夏休みに入るより前から、母は病院と家を毎日往復していたが、
これからは、僕が日中病院にいる間に、帰って家事をして、
夕方病院に戻って、僕と交代して泊まり込む、というのだ。
今考えるとけっこうハードな話であるが、僕はそんな状況に
気づきもせずに、7日間父の世話をした。
幸運にも、病院というものにあまり縁のない人生を送ってきたため、
最初の頃こそ興味津々だったが、そんなに自由が利く場所なはずもなく、
すぐに飽きて、楽しみといえば、玄関そばにある自動販売機にある
「グァバジュース」くらいであった。
14歳の身としては、実父のシモの世話をするなんて、それこそ
驚天動地の出来事だったが、つまりは、父はもはやトイレに
起き上がれないくらいに消耗していたのである。
父曰く「人間は食えなくなったらおしまいだ」とのことだったが、
すでに病院食もほとんど摂れずにいた。
僕にバナナを食べさせるように言ってくることが、何回かあり、
剥いてゆっくり食べさせる、とかしてはいたが、あとで吐いていた、
という話を聞いたので、僕を安心させたかっただけだったのかもしれない。
今思うと気丈に振る舞っていた父ではあったが、一度だけ
苦痛に耐えかねて、ナースコールを使ったことがある。
その時の鎮静剤について、それがモルヒネであるとわかっても、
状況を理解ができなかったのは、若さゆえなのか、
状況を理解ができなかったのは、若さゆえなのか、
否認、無意識に認めたくないだけであったのか、今でもよくわからない。
ただ僕が帰る際に、父は決まって、駄賃に500円札をくれた。
500円は、帰りのバス停前にある本屋で“山止たつひこ”という
ふざけたペンネームから、本名の“秋本治”に切り替えている
最中の“山止たつひこ改め秋本治”が描いている、
『こちら葛飾区亀有公園前派出所』を一日一冊買って使った。
気の滅入るような通院を、おちゃらけたギャグマンガで
少しでも薄めたかったのかもしれないが、なんでか、
使わなければいけない、そんな気がしたのである。
7月の最終日、父が午後に手術をするということで、
明日からは通院しなくてもいい、と母に言われたときは、心底ほっとした。
明日、8月1日から、ようやく普通の、中学時代最後の夏休みがおくれる、
そんな風に思ったような気もするが、もちろんそんなはずはないのであった。
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今思うと父は瀕死の重病人以外の何物でもなかったのですが、
当時ワタクシには、そんな風には思えなかったのです。
あ、そういえば、今でも母親は絶対死なないような気がしています。
んでわ。